カテゴリ:思い出のひとこま( 7 )

知らなかった一面

母が痛い足を引きずって、地域の知人の家にお茶をしに行った。
そのときの話を電話で聞いた。

その女性は、母よりも年上の85歳くらいの一人暮らしの方だ。
これまで、母がその家を訪ねたという話は聞いたことがなかった。

父が逝ってしばらくたつと、その方から何度もお誘いを受けていたらしい。
4月に入り、気候も落ち着いてきたので、思い切っておじゃましてきたらしい。

そこで母は父の思い出話を聞いてきたと話してくれた。

小さい頃から、優しかった。
体が不自由な同級生に特に優しかった。
冬の登下校時に吹雪になると、
父はいつも自分のマントに小柄なその同級生を包み込み、
抱えるようにして歩いていたと、その方は話してくれたらしい。

その方は若くして無くなったが、
私が幼かった頃、よく父のところに来ていた。
二人でお酒を酌み交わしていた姿を 私も覚えている。

母が訪ねていった女性は、地域の公民館の近くで暮らしている。
父は公民館に用事があって出かけたときには決まって、
帰りしなに、彼女の家に声をかけていたらしい。
それがとてもうれしかったと言ってもらえて、母もうれしそうだった。

父  :「○○さん げんきがよ(元気ですか)。」
○さん:「お茶でも飲んでいがねがよ(飲んでいきませんか)。」
父  :「いやいや、そうしていらんにだ(そうはしていられないのですよ)。まだ、くっからな(またくるよ)。」

簡単な会話を交わすだけだったけれど、わざわざ声をかけに立ち寄ってくれたことを感謝していると母に伝えたらしい。

娘として、父にそんな一面があることを知らなかった。
この話を聞いて、とてもうれしくなった。
母にわざわざこの話を伝えてくださった方に、私こそ感謝の気持ちでいっぱいになった。
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by hanaatushin | 2013-04-14 03:25 | 思い出のひとこま

誕生日

12月1日は、母の誕生日だ。
朝目が覚めると、すぐにそのことを思い出した。
前日までは全く思い出しもしなかったのに。
思い出したらたまらなくなった。
電話をした。

母は、出かけていて留守だった。

夜に、母から電話が来た。
1週間前に会ったばかりだったけれど、
無性に懐かしかった。

母の声のその奥にある思いをたぐろうと精一杯耳を傾けた。

いつまでたっても親離れできない。
思ったときに母の声を聞き
思いついたときに母の顔を見て

そんな日が送れたらいいなと今でも思う。


自分のことばかり語ることが多くなって
新しいことをなかなか理解できなくなって
年を重ねていく母の姿が見えるにつれ
近くにいたいと思うことが増えた。

なかなか親離れできない
中年の娘が、私。
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by hanaatushin | 2007-12-02 02:25 | 思い出のひとこま

わたしも「夏の庭」

わたしも「夏の庭」を読んでみました。
そういえば、テレビで放送された映画をちらっと見たことがあったような…
古い家のまわりにコスモスがいっぱい咲いている場面を見たような…

息子が3年生の時、彼の曾祖母が亡くなりました。
息子は別れ際にも、曾祖母の枕元にいました。

お葬式が済んでしばらくすると、
長男はとても不安定になりました。
夕方になると毎日のように、めそめそしたのです。

妹も弟もいましたから
長男はしっかり者のようにしていて、甘えたりすることは少なくなっていました。
その長男が、閉じこもって暗い部屋の隅にうずくまってめそめそしているのです。

わたしは、長男の部屋で2人だけになると
「これは心のお薬だから」
と言って、ぎゅうっとだきしめました。
夕方になると、毎日のように心のお薬を繰り返しました。
長男は
「お母さん、どこにも行かない?お母さん死なない?」
と言って、泣きました。
こんなほんの数分の時間を何日も2人で過ごしました。
心のお薬の時間は、
長男も甘えん坊の男の子になりました。

いつの間にか
ぎゅうっとだっこは必要なくなりました。
大人になった長男は、もうそんなことがあったことも忘れています。

「夏の庭」を読んで
長男のことを思い出しました。
そして、自分自身の心の中の不安の種のことも考えました。

「夏の庭」は安心して読めました。
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by hanaatushin | 2006-09-10 09:13 | 思い出のひとこま

子供だった頃

どうして周りの友達はあんなふうに笑えるのだろう
どうしていつも笑っていられるのだろう
不思議でならなかった

箸が転げてもおかしい年頃といわれる頃
私は 笑えない娘だった  と思う

いつも不安が自分を包んでいた ような気がする
鬱々とした気分で毎日を過ごしていた ような気がする

アカシアの大連
という作品があった。
友達に勧められて読んではみたものの
よく分からなかった
けれど、
どっぷりおも~い気分に沈み込んでいったことだけは覚えている

羊ヶ丘
を読み声をあげて泣いた夜もあった

行助
という名の男性が主人公の作品を読み
  破傷風がストーリーのモチーフにあったような
  テレビ番組にもなったような
  大事な作品なのにタイトルを忘れてしまっている

自分の子供には「行助」と名付けよう
正直で誠実でまじめに生きる男になるために…
と真剣に思った日もあった

何を考えて暗かったのか
何を思って鬱々としていたのか
思い出そうとしても 浮かんでこない

ただ、楽しそうに笑い合う友達を見ながら
どうして いつも楽しくしていられるのかと
本当に不思議に思ったことだけはよく覚えている

随分昔のことだけれど思い出してみると
新たに気付くこともある
私自身が人とうまく関われない子だったのかなと
自分の殻の中で自分だけを見て大きくなってきたのかなと
仲良しの友達をうまく作れない少女が
暗い顔をしてますます孤立していたのかなと

でも、こうして大人になっている
悩みがあっても
孤独があっても
大人になっている
そして、自分にそんな少女時代があったことさえ忘れかけている



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                      2005,8 ウイーンの路面電車
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by hanaatushin | 2006-03-04 06:29 | 思い出のひとこま

母は、人生の充実期を介護に明け暮れる人生を送った。
私は、母の人生はつまらないと思ってきた。
母がかわいそうでならなかった。

私は、祖父母の介護を両親に、特に母に押しつけるようにして、
自分たちは何も手を出さない叔父叔母を恨んだ。
 都合のいいときに現れて、自分たちの都合のいいことばかりをして…
 母も、父も泥だらけで働いているのに、
 休む間もなく働いているのに、
 祖父母の介護をも背負わされて…

その祖父母の法要があった。
母が、苦労したことをねぎらう言葉が次々とかけられたが、
叔父も叔母も、祖父母の寝たきりの様子をきちんと記憶していなかった。

祖母はなくなる3年くらい前から、目がよく見えなくなっていた。
箸を探すときは手探りをしていた。
お椀を持つときも、そーっと手探りをしていた。
だからよくお椀を引っかけてこぼすことがよくあった。
それで、祖母の汁椀をどんぶりのように重いものにかえたのだ。
その事を叔父も3人の叔母も記憶していなかった。

母が言った。
「強い人だったから、決して弱音を吐かない人だったから、
 だから、気付かなかったのね。」
祖母を誇るような口ぶりだった。
祖母の強さをたたえる口ぶりだった。
私には、ちょっとした驚きだった。

母は、祖母の強さに痛みを感じていたんじゃなかったの。
祖母の強さのために、母は泣いたこともあったんじゃなかったの。

そんなことも何もかも、時間は洗い流してしまったようだ。
そんな母の言葉だった。

共に家族として時間を共有したこと
義理の関係ではあっても親子として一つ屋根の下で過ごしてきたこと
そのことの重さや意義がくっきりと表れているようだった。
母は、大変だったけれど介護に明け暮れた12年を後悔はしていない。

血のつながっている叔母たちよりももっと
母の方が祖母を知っていて、身近な関係だったことをよく伝えていたと思う。
そういう自分を
やり遂げた自分を誇りにしている。
昨日の母を見て、そう思った。
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by hanaatushin | 2005-11-07 20:09 | 思い出のひとこま

祖父母のこと

思い返してみるともう40年近くも前のことになった。
私の祖父は2度目の脳梗塞で寝たきりになった。
厳格な祖父だった。
大きな声で怒鳴ることなど少なかったが、
げんこつが降ってくることが多かった。
祖父の言うことは子供の私にとっては、絶対だった。

私は、祖父をあまり好きではなかった。
親しみのようなものがあまりなかったからかもしれない。
しかし、40年以上も前に、
田舎村の農家の爺が
弟が生まれるまでは一人っ子だった私に
クリスマスになると、いろいろなものをプレゼントしてくれたことはよく覚えている。

大きい赤い長靴に入ったお菓子セットを手渡されたことがあった。
ショートケーキが入っているとんがり帽子が、枕元に置かれていたこともあった。
さまざまなお菓子がぎっしり詰まっていた真っ白なお城が置いてあったこともあった。
当時の農家の暮らしの中では、どれも豪華すぎるほどのプレゼントだったと思う。
だから本当は、私は祖父に随分かわいがられていたのだと思う。

そのころは、飼っていたニワトリがよく食用にされた。
我が家でその仕事をするのは、いつも祖父だった。
祖父は、初めの作業は絶対に私の見えないところでしていた。
もとの形が分からなくなってから
上手にナイフを操ってニワトリを解体していく祖父の手元を幼かった私はいつもじっと見ていた。
仕事が終わると、祖父はいつもササミを焼いて食べさせてくれた。
香ばしく焼けたササミに醤油をたらして
祖父と私だけで食べた味は格別だった。
私は、それが楽しみで、祖父の間近で作業を見つめていたのかもしれない。
この風景を思い出した今になって改めて、
わたしが祖父にかわいがられていたと感じることができた。

でも、子供の頃の祖父は親しみを感じる人ではなかった。
祖父は、よその人に父のことを語るとき
けなすことばかりを言っていた。
明治生まれの人が、自分の家族を人前でほめることなどできないことは
今になって分かるようになったけれど
子供の頃はそんな祖父が好きではなかった。
大好きな父のことを軽んじるように話す祖父が好きではなかった。

そんな祖父が寝たきりになった。
当然、介護は家族の仕事だった。
祖母が、愚痴をこぼしながら3年ほど介護した。

祖父は、都はるみの歌を聴くと声を上げて幼子のように泣いた。
厳格だった祖父の変わりようが悲しくて
私は、もっと祖父に近づかなくなった。

そして、私が中一の時の12月29日、
正月飾りのための餅つきをする日の朝に
祖母が倒れた。
祖母も、その日から寝たきりになった。

40年近く前のこと
福祉はそれほど充実しておらず、
舅姑の介護は嫁の仕事と誰もが当然のように考えていた時代だった。
農業をしながら、母は2人を介護した。
介護用品もろくに出回ってはいない時代だった。
母は、通算12年間、寝たきり老人を抱えて、仕事もして子育てもしてという生活を送った。

ずっとこれまで
私は、寝たきりの家族がいるから、我慢することばかりが多いと思ってきた。
私は、寝たきりになった祖父母のせいで苦労してきたと思っていた。
そして、長い間介護をしてきた母がかわいそうでならなかった。
母のことを思う尺度で考えてきた。

でも、今日はいつもとは違う。
何気なく、祖父のことを思い出しているうちに
十分な介護を受けられなかった祖父の切なさにも思い至った。
祖母の布団の上の姿を思い出すうちに、
寝たきりになってから、一日のほとんどをテレビだけを相手に暮らした祖母の気持ちを思った。
祖母はどれほどの思いを抱いて毎日を過ごしたのだろうと。

祖父母は2人とも寝たきりの状態で金婚式を迎えた。
父は兄弟を集めて、金婚式の祝いをした。
祖父母はそれぞれに花束を渡されて、にこにこしたけれども
2人寄り添うこともできなかった。
晴れ着で飾ることもできなかった。

私は、祖父母の人生のどれほども知ってはいない。
家族であり、血を分けた肉親であるのに、祖父母の思いのかけらも気付かないで過ごしてきた。
考えようともしなかった。
だからこんなふうに、祖父母のことを思い出して考えたことは、今までなかった。

今、祖父母がぐっと身近になった。
明日は、2人の法要がある。
2人が私の心をたたいたのかもしれない。
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by hanaatushin | 2005-11-05 02:08 | 思い出のひとこま

梅の教え

子供の頃、家の庭に梅の木があった。
大きな実をつけるその梅の木に、青梅が実る頃、
高校生の叔母は青梅をもいで、塩をつけてカリカリかじっていた。
まだ幼稚園にも通っていない私も、青梅を食べたいと祖母にねだった。
「だめだめ、青梅は、おなかを壊す。」
どうしても食べさせて貰えなかった。

運よく(?)落ちた梅を拾って、叔母のまねをして塩をつけてかじってみた。

ビックリ仰天とはこのことだと思うくらい驚いた。
酸っぱいとか、しょっぱいとか、味覚の範囲を超えて、刺激が走った。
苦かった、びりびりした記憶がある。
どうしてこんなものを叔母たちはおいしそうに食べるのか、幼心に不思議だった。
大きくなると梅を食べられるようになると、幼心に感じた。
刺激的な梅をおいしそうにカリカリさせるのが、大人への第一歩のようで、憧れであった。

でも、私はあれ以来、梅をかじってみようという気持ちは二度と起こらない。
青梅はおなかを壊す。
これが心に刻まれただけではない。
青梅の強烈な刺激がしっかり脳に刻み込まれたようだ。

庭にあった梅と同じ種類の梅を、婚家の畑に植えて10年になる。
今年は、15kgほど実った。
今日は、傷の付いた梅で、ジャム作りをした。
作りながら、砂糖を入れるまで一度も、味見をしようという気にならなかった。

梅の教えは、いまだに忘れ難いものである。
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ミニトマトと比べると、梅の大きさが分かる。
15個で1kgだった。
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by hanaatushin | 2005-07-09 23:02 | 思い出のひとこま